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記事2005年3月3日 1970号 (3面) 
私学人が語る私の学校・教育改革

田澤 昭吾氏


吉谷 修氏

青少年の問題行動から考える
日出学園小学校教頭 二見 晴彦


 今年もまた成人の日に新成人の傍若無人な振る舞いがテレビで放映された。日常生活の中でも混雑する電車の中で人目かまわず床に座り込んだり、平気で化粧をする高校生などの姿が目につく。毎日のように報道される凶悪な少年犯罪。罰則強化だけでよいのだろうか。
 今、子供たちに最も必要なことは、社会生活に学校生活に、いや家庭生活に必要な最低限のルールやマナーを、きちんとそれぞれの場で教えるべき人が指導することではないだろうか。かつてはルールやマナーは、礼儀作法、身だしなみ、躾(しつけ)というようなもので父母に祖父母に教えられていたはずである。核家族になり少子化現象の加速と、日本社会が豊かさの絶頂にあることも原因として考えられる。他方、パソコン、ゲーム機、ソフト等の過剰生産により一人で遊べる遊具が出現し、ますます子供たちは孤立化し一人の世界になり、社会生浩に必要なルールやマナーがなくなった。集団生活にはルールが必要である。ルールに従えば個人の自由は制限される。だから子供たちにとってルールは邪魔なもの、厄介なものとなるであろう。
 戦後、個人の権利の尊重、自由が叫ばれてきたが、個を尊重するあまりの誤解釈ではないだろうか。自分の意識の中には他人の存在は無く、自分の世界だけに没頭する。自分さえ良ければ、楽しければの意識。望めば何でも与えられる自分だけの都合のよい環境ができあがってしまう。それに叱(しか)られることに慣れていない今の子供たちは、ちょっと注意されると衝動的に他人に暴力を振るってしまう。つまり「切れる」行動現象である。
 本校でもトラブルがあり当事者の高学年の男子児童に注意しようとしたところ、「ごめんなさい」の前に開口一番「すぐにお母さんを呼んでください」と指導の先生に訴えた。子供は叱られるべきところで親から叱られていない。残念なことである。「型」にはめずに自由に育てたいという考えもあるが、生きるためには集団との関(かか)わりが不可欠なものである。「型」とはいったい何であろう。「型」とは最低限、人間生活のルール、マナーではないだろうか。「型」を考えることから入り、マスターさせた上ではじめて権利、自由の尊重ではないかと考える。
 現在、強く感じるのは、全体活動・集団生活の大切さである。本校は、毎週月曜日に全体でラジオ体操を行っている。決して上手とはいえない。前後左右バラバラであり体操とは言えない動きも目に付く。また、学年体育も行っているが、個人では上手な縄跳びも、グループ跳びではなかなかうまくいかない。周りに合わせる、気持ちを一つにするなど他を思いやる精神から、我慢する時は我慢することを教えなければならない。烏合(うごう)の衆ではなく全体の中の個を意識させることを遊びや学習を通して学ばせたいものである。
 「型」から入って、「型」から抜け出る力を引き出すことが人づくりの基本と考えたい。

教育基本法の改正
学校法人大和山学園理事長 田澤 昭吾


 戦後六十年を迎えた日本は、疲弊した制度の改革の年としなくてならない。そのためには、憲法改正に取り組むことである。六十年も憲法改正を悪とし、タブー視してきた国家は、どこの先進国にあるだろうか。日本に憲法を押しつけたアメリカでさえ、一九九二年までの間に改正一八回、追補が二七カ条もある。今年こそ自主憲法成立のために、「頑張れ日本」と言いたい。次に、本稿で論ずる教育基本法の改正である。教育基本法の改正を、憲法改正と並んで、戦後の総決算として取り組んでいる国会議員には、特に今年頑張ってもらいたいと思う。以下、本題に入る。
 マスメディアを通じて茶の間に飛び込んでくる青少年の犯罪は、年々凶悪化し、信じられないような事件が相次いで引き起こされている。戦後日本の教育の混迷が叫ばれてから久しいことは、読者も同様に理解していることであろう。なのに、教育の「憲法」である教育基本法の改革になぜ取り組んでこなかったのかと、憤りにも似た思いで地団駄を踏んできた人も数多(あまた)いたことと推察する次第だ。
 神戸の中学生による小学生の殺害事件以来、教育の場で「命の大切さを子供たちに教えなくてはいけない」、そのためには「心の教育の普及を」と、合い言葉のように言い続けてきたが、それが解決策に繋がっていかなかったことを知らされたのは、佐世保で起きた女子小学生のカッターナイフによる友人殺害事件でもあった。だれもが驚(きょう)愕(がく)し、心の教育の在り方をもう一度根底から見直さなくてはいけないと思ったはずだ。学校教育の見直しは、補導員、民生委員、生活指導の学校教員等々、地域社会が一体となって取り組み、あるべき教育の具体策を協議し、鮮明に打ち出していくことが必要であろう。一学校だけの問題でなく、一家庭の問題だけでもなく、戦後社会の中で蝕(むしば)まれてきた社会全体の問題として取り組まなければ、抜本的な改革・是正が期待できまい。そうしなければ、これまでと同じようなイタチごっこの取り組み策で終わってしまうこと必須で、何の解決策にもならないであろう。国家が国民の教育に責任を持って取り組むことの大事は、「国家百年の大計は人を育てるに如かず」という諺(ことわざ)に示されてある通りだ。
 人間は、生物の本性の一つである集団に帰属し生きていく存在である。アリストテレスは、「人間はポリス(社会的)的動物」だという定義を遺(のこ)したが、この定義は今も真理として傾聴に値する。個人主義だけが突出した日本の現代社会では、人間とは何かという基本的価値観を再考し、是正していかなければ、益々人間の生きる道を見失い、迷路に入ってしまう。そのためにも、教育基本法を改正し、日本人としての誇りと責任を自覚した日本人の育成、祖先への感謝と見えざるものに対する畏敬の念を持った日本人の育成、日本の伝統的精神文化を尊重し、その基盤に立って世界の平和に貢献できる日本人の育成に努めていくべき時が、今である。立ち上がれ、日本。

今、最も必要な教育
久留米信愛女学院短期大学助教授 吉谷 修


 文部科学省より昨年の十二月に、小・中・高校生の自殺者が前年度比一一%増にあるという調査結果が発表された。
 自殺者の数は年度によるバラツキが見られ、一概に増加傾向にあるとは言えないようであるが、心因性疾患的な症状を呈する児童や生徒、学生が増加傾向にあることを身近に感じておられる教育関係者は多いのではないだろうか。
 この調査結果に先立ち、十月には青少年の体力や運動能力が一九八五年頃をピークに年々低下しているという結果も発表されている。
 これらの調査結果は個別的に取り扱われる傾向にあるようであるが、私は少なからぬ相関がある問題として取り扱うべきではないかと考えている。
 心身相関の問題を難しく考えるまでもなく、例えば、身体的な持久性が低下すれば精神的にも粘りがなくなってくるのは当たり前のことである。また、極端な運動不足に陥ると、起立姿勢の保持に困難を来たしたり、鬱的な傾向を招きやすくなったりすることは一般に知られているところであろう。
 その他、ある程度の筋力を使わない状況が続くとカルシウム不足になることや、カルシウム不足が情緒的な不安定や不眠を招きやすいことも知られているのではないかと思われる。平たく言ってしまえば、適切な食生活や運動生活がなされていなかったり、必要な休養や睡眠が取られていなかったりすれば、落ち着いて勉強に集中することができないばかりか、自律神経の失調を招いたり、鬱的な症状を呈してくる場合さえあるということである。
 ここ数年、児童や生徒、学生の心の悩みに対応する為(ため)に、スクールカウンセラーを配属する動きが活発化している。このような動きに何ら異論を唱えるものではないし、私自身その必要性を痛感している一人である。
 しかしながら、人間が心身一如的な存在であるという根本に立ち返る時、栄養・運動・休養のバランスを含む身体の問題抜きに、心の健康について考えることが果たして可能なのであろうか。
 環境や状況がまちまちであるそれぞれの教育機関において、具体的にどのような方策を講じることが適切であるのかについて論じることは控えるが、食生活や運動生活を含むライフスタイルが日々変化し、初等教育機関から高等教育機関に到(いた)るまで、カリキュラムの削減や大綱化により、授業における青少年の運動の機会が減少している今日、今までとは違った形で身体の問題に取り組むことも、「今、最も必要な教育」の一つに数えてよいのではないだろうか。

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